米国政府の概要 - 第1章
憲法 ― 不朽の文書
「この規定は、来たるべき時を超えて持続し、その結果、人間に関するさまざまな危機に当てはめるべきものとして憲法に盛り込まれている」
— 合衆国最高裁判所長官ジョン・マーシャル、1819年「マカロック対メリーランド州事件」の判決文から
合衆国憲法は、米国政府の主要な法律文書であり、国の最高法である。合衆国憲法は、200年間にわたり、政府機関の進化の指針となるとともに、政治的安定、個人の自由、経済の成長、社会の進歩の基盤を提供してきた。
合衆国憲法は、現在有効な成文憲法としては世界最古であり、世界各地の多くの憲法の模範となってきた。合衆国憲法に持続力を与えているのは、その簡潔性と柔軟性である。この憲法は当初、18世紀末に、米国大西洋岸の13の実に多様な州の住民400万人を統治するための枠組みを提供するものとして作成されたが、その基本的な規定は、極めて堅実に構想されているため、その後わずか27の修正条項を加えただけで、現在は大西洋岸から太平洋岸まで広がるさらに多様な50州の米国民2億6000万人の要求に応えている。
憲法制定までの道は、まっすぐでも、容易でもなかった。1787年に草案が現われたが、それまでには激しい議論と、6年間に及ぶ初期の国家連合の体験が必要だった。1776年、アメリカ大陸の13の英国植民地は、母国からの独立を宣言した。その前年に、これらの植民地と英国との間に独立戦争が勃発し、6年間にわたって激しい戦いが続いた。その戦いの最中に、13の植民地は、自らを「アメリカ合衆国」と呼び、この13植民地をひとつの国家とする盟約を起草した。この盟約は「連合と永続的統一の規約(連合規約)」と命名され、1777年に13州から成る議会で採択され、1778年7月、正式に署名・調印された。1781年3月にメリーランド州が13番目の州として連合規約を採択し、この規約が拘束力を持つことになった。
連合規約は、各州間の連合を緩やかなものとし、権限が非常に限られた連邦政府を樹立した。防衛、国家財政、通商といった極めて基幹的な問題に関しては、連邦政府は各州議会の意向に従わなければならなかった。これは、安定と力をもたらす制度ではなく、短期間のうちに、この連合の弱点は誰の目にも明らかとなった。この新国家は、政治的にも経済的にも、ほとんど混乱状態にあった。1789年に初代米国大統領に就任することになるジョージ・ワシントンは、当時、この13州は「砂で作った縄」でつながれているにすぎない、と形容した。
こうした幸先の悪い状況の中で、合衆国憲法は起草された。1787年2月、この共和国の立法機関である大陸会議は、各州に、連邦規約改正のためペンシルベニア州フィラデルフィア市に代議員を送るよう要請した。1787年5月25日、フィラデルフィアの独立記念館で憲法制定会議が開催された。独立記念館は、その11年前の1776年7月4日に、独立宣言が採択された場所である。憲法制定会議の代議員は、連合規約を修正する権限だけを与えられていたにもかかわらず、連合規約を押しのけ、全く新しい、より中央集権的な政府を実現するための憲章作成に取り組んだ。かくして新たな文書、合衆国憲法が、1787年9月17日に完成し、1789年3月4日、正式に採択された。
憲法を起草した55人の代議員の中には、この新国家の最も優秀な指導者たちがいた。すなわち「建国の父」と呼ばれる人々だった。彼らは、分野も背景も地位もさまざまであったが、憲法前文に記されている次のような主要な目標については意見が一致していた。「われわれ合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われわれとわれわれの子孫に自由の恩恵を確実にもたらすために、この憲法をアメリカ合衆国のものとして制定し、確立する」
多様な人々の統一
合衆国憲法の主要な目的は、国民の意志に直接応える、公選による強力な政府を作ることだった。自治の概念は、米国で生まれたものではない。実際のところ、当時の英国にこそ、ある程度の自治が存在していたのである。しかし、合衆国憲法が国家を人民による統治に委ねた度合いは、世界各国の政府に比べて抜きん出ており、革命的と言えるものだった。この憲法が採択される頃までに、米国民はかなり高度な自治の技術を体得していた。独立宣言のはるか以前から、植民地はそれぞれ、人民が支配する行政単位として機能していた。そして、独立戦争が始まった後、1776年1月1日から1777年4月20日までの間に、13州のうち10州が、それぞれ独自の憲法を採択した。ほとんどの州で、州議会が州知事を選出し、州議会自体は一般投� ��で選ばれた。
連合規約は、これらの自治州を結束させようとするものだった。これに対して、合衆国憲法は、各州間の関係を規制する広範な権限を持ち、外交や防衛などの分野で単独の責任を持つ強力な中央政府、つまり連邦政府を樹立するものだった。
しかし、多くの国民にとって、中央集権化は受け入れ難いものだった。米国の入植者の大部分は、ヨーロッパにおける宗教的・政治的抑圧から逃れ、個人をその技能や意欲にかかわらず決まった地位に縛り付ける旧世界の硬直した経済パターンから逃れるために、母国を離れた人たちだった。彼らは、個人の自由に高い価値を見出し、そうした個人の自由を制限する可能性のある権力 ― 特に政府の権力 ― を警戒した。
この新国家の多様性も、結束にむけての恐るべき障害となった。憲法によって、中央政府を選出し制御する権限を与えられた18世紀の人々は、多様な出自と、信念、利害を代表していた。新世界への移民の大半は英国人であったが、スウェーデン、ノルウェー、フランス、オランダ、プロシア、ポーランド、その他多くの国々も移民を送り込んだ。宗教的信念も、英国国教会派、ローマカトリック派、カルビン派、ユグノー派、ルター派、クエーカー派、ユダヤ教などさまざまで、多くの場合、強い信仰心があった。経済的、社会的には、土地所有貴族から、アフリカ人奴隷や年季奉公契約の労働者まで、各種の階層があった。しかし、国家の中核となったのは、農民、商人、機械工、船員、造船工、織工、大工、その他もろもろの中� ��階級だった。
当時の米国民も、現代の米国民と同様、ほぼあらゆる問題について、大きく異なる意見を持っていた。大英帝国からの独立に関しても同様であり、独立戦争中には、「トーリー」と呼ばれる英国王党派が大挙して米国を脱出し、カナダ東部に移住した。米国内に残った王党派は、かなり強力な反対組織を形成したが、その内部でも、独立に反対する理由や、新たなアメリカ共和国とどう折り合いをつけるかを巡って、意見が分かれた。
過去2世紀の間に、米国の国民はさらに多様化しているが、国家の本質的な結束は強化されている。19世紀を通じて、また20世紀に入ってからも、絶え間なく流入する移民が、その技能と文化的伝統を、この成長する国家にもたらした。開拓者たちは、米国東部のアパラチア山脈を越え、アメリカ大陸中央部のミシシッピ川流域や大草原地帯に入植し、さらにロッキー山脈を越えて、最初の入植地の大西洋岸から西に4500キロメートルも離れた太平洋岸に到達した。こうした国家の拡大とともに、この国が天然資源の宝庫であることが、誰の目にも明らかになった。それは、広大な処女林の群生、石炭・銅・鉄・石油の巨大な鉱床、豊富な水力、そして豊かな土壌などである。
この新国家の富は、独自の多様性を生み出した。地域や産業別の利害集団がいくつも発生した。東海岸の船舶所有者は、自由貿易を支持した。中西部の製造業者は、成長する米国市場での地位を守るために、輸入関税の導入を主張した。農民は、低い輸送料金と高い商品価格を求めた。製粉業者やパン職人は、低い穀物価格を、また鉄道会社は、できる限り高い輸送料金を望んだ。ニューヨークの銀行家、南部の綿生産農家、テキサスの牧場経営者、そしてオレゴンの製材業者は、それぞれ、経済や、経済を規制する政府の役割について、異なる意見を持っていた。
こうした多様な利害集団を結束させ、共通の土壌を作ると同時に、すべての国民の基本的な権利を守ることが、合衆国憲法と、それによって作られた政府の、継続的な仕事となった。
今日の政府の複雑さに比べれば、現在よりはるかに未開発の経済状況を背景に400万人の国民を統治することは、小さな問題であるように思えるかもしれない。しかし、憲法の起草者たちは、現在と同時に将来のためにも基盤を築いていたのである。彼らは、自分たちの世代だけでなく、その後何世代にもわたって機能できるような政府の構造が必要であることをはっきりと認識していた。そこで彼らは、社会的、経済的、または政治的状況によって必要となった場合に憲法を修正するための規定を、憲法に盛り込んだ。憲法の採択以来、27の修正条項が可決されてきた。そしてこうした柔軟性が、この憲法の最大の強みのひとつであることが実証されている。このような柔軟性がなければ、200年以上も前に起草された文書が、今日、2� ��6000万人の国民と、あらゆるレベルの何千もの政府単位の要求に効果的に応えられるとは考えられない。また、小さな町の問題にも、大都市の問題にも、同等の力と精度をもって適用できたとも考えられない。