憲法 ― 不朽の文書
米国政府の概要 - 第1章
憲法 ― 不朽の文書
「この規定は、来たるべき時を超えて持続し、その結果、人間に関するさまざまな危機に当てはめるべきものとして憲法に盛り込まれている」
— 合衆国最高裁判所長官ジョン・マーシャル、1819年「マカロック対メリーランド州事件」の判決文から
合衆国憲法は、米国政府の主要な法律文書であり、国の最高法である。合衆国憲法は、200年間にわたり、政府機関の進化の指針となるとともに、政治的安定、個人の自由、経済の成長、社会の進歩の基盤を提供してきた。
合衆国憲法は、現在有効な成文憲法としては世界最古であり、世界各地の多くの憲法の模範となってきた。合衆国憲法に持続力を与えているのは、その簡潔性と柔軟性である。この憲法は当初、18世紀末に、米国大西洋岸の13の実に多様な州の住民400万人を統治するための枠組みを提供するものとして作成されたが、その基本的な規定は、極めて堅実に構想されているため、その後わずか27の修正条項を加えただけで、現在は大西洋岸から太平洋岸まで広がるさらに多様な50州の米国民2億6000万人の要求に応えている。
憲法制定までの道は、まっすぐでも、容易でもなかった。1787年に草案が現われたが、それまでには激しい議論と、6年間に及ぶ初期の国家連合の体験が必要だった。1776年、アメリカ大陸の13の英国植民地は、母国からの独立を宣言した。その前年に、これらの植民地と英国との間に独立戦争が勃発し、6年間にわたって激しい戦いが続いた。その戦いの最中に、13の植民地は、自らを「アメリカ合衆国」と呼び、この13植民地をひとつの国家とする盟約を起草した。この盟約は「連合と永続的統一の規約(連合規約)」と命名され、1777年に13州から成る議会で採択され、1778年7月、正式に署名・調印された。1781年3月にメリーランド州が13番目の州として連合規約を採択し、この規約が拘束力を持つことになった。
連合規約は、各州間の連合を緩やかなものとし、権限が非常に限られた連邦政府を樹立した。防衛、国家財政、通商といった極めて基幹的な問題に関しては、連邦政府は各州議会の意向に従わなければならなかった。これは、安定と力をもたらす制度ではなく、短期間のうちに、この連合の弱点は誰の目にも明らかとなった。この新国家は、政治的にも経済的にも、ほとんど混乱状態にあった。1789年に初代米国大統領に就任することになるジョージ・ワシントンは、当時、この13州は「砂で作った縄」でつながれているにすぎない、と形容した。
こうした幸先の悪い状況の中で、合衆国憲法は起草された。1787年2月、この共和国の立法機関である大陸会議は、各州に、連邦規約改正のためペンシルベニア州フィラデルフィア市に代議員を送るよう要請した。1787年5月25日、フィラデルフィアの独立記念館で憲法制定会議が開催された。独立記念館は、その11年前の1776年7月4日に、独立宣言が採択された場所である。憲法制定会議の代議員は、連合規約を修正する権限だけを与えられていたにもかかわらず、連合規約を押しのけ、全く新しい、より中央集権的な政府を実現するための憲章作成に取り組んだ。かくして新たな文書、合衆国憲法が、1787年9月17日に完成し、1789年3月4日、正式に採択された。
憲法を起草した55人の代議員の中には、この新国家の最も優秀な指導者たちがいた。すなわち「建国の父」と呼ばれる人々だった。彼らは、分野も背景も地位もさまざまであったが、憲法前文に記されている次のような主要な目標については意見が一致していた。「われわれ合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われわれとわれわれの子孫に自由の恩恵を確実にもたらすために、この憲法をアメリカ合衆国のものとして制定し、確立する」
多様な人々の統一
合衆国憲法の主要な目的は、国民の意志に直接応える、公選による強力な政府を作ることだった。自治の概念は、米国で生まれたものではない。実際のところ、当時の英国にこそ、ある程度の自治が存在していたのである。しかし、合衆国憲法が国家を人民による統治に委ねた度合いは、世界各国の政府に比べて抜きん出ており、革命的と言えるものだった。この憲法が採択される頃までに、米国民はかなり高度な自治の技術を体得していた。独立宣言のはるか以前から、植民地はそれぞれ、人民が支配する行政単位として機能していた。そして、独立戦争が始まった後、1776年1月1日から1777年4月20日までの間に、13州のうち10州が、それぞれ独自の憲法を採択した。ほとんどの州で、州議会が州知事を選出し、州議会自体は一般投� ��で選ばれた。
連合規約は、これらの自治州を結束させようとするものだった。これに対して、合衆国憲法は、各州間の関係を規制する広範な権限を持ち、外交や防衛などの分野で単独の責任を持つ強力な中央政府、つまり連邦政府を樹立するものだった。
しかし、多くの国民にとって、中央集権化は受け入れ難いものだった。米国の入植者の大部分は、ヨーロッパにおける宗教的・政治的抑圧から逃れ、個人をその技能や意欲にかかわらず決まった地位に縛り付ける旧世界の硬直した経済パターンから逃れるために、母国を離れた人たちだった。彼らは、個人の自由に高い価値を見出し、そうした個人の自由を制限する可能性のある権力 ― 特に政府の権力 ― を警戒した。
この新国家の多様性も、結束にむけての恐るべき障害となった。憲法によって、中央政府を選出し制御する権限を与えられた18世紀の人々は、多様な出自と、信念、利害を代表していた。新世界への移民の大半は英国人であったが、スウェーデン、ノルウェー、フランス、オランダ、プロシア、ポーランド、その他多くの国々も移民を送り込んだ。宗教的信念も、英国国教会派、ローマカトリック派、カルビン派、ユグノー派、ルター派、クエーカー派、ユダヤ教などさまざまで、多くの場合、強い信仰心があった。経済的、社会的には、土地所有貴族から、アフリカ人奴隷や年季奉公契約の労働者まで、各種の階層があった。しかし、国家の中核となったのは、農民、商人、機械工、船員、造船工、織工、大工、その他もろもろの中� ��階級だった。
当時の米国民も、現代の米国民と同様、ほぼあらゆる問題について、大きく異なる意見を持っていた。大英帝国からの独立に関しても同様であり、独立戦争中には、「トーリー」と呼ばれる英国王党派が大挙して米国を脱出し、カナダ東部に移住した。米国内に残った王党派は、かなり強力な反対組織を形成したが、その内部でも、独立に反対する理由や、新たなアメリカ共和国とどう折り合いをつけるかを巡って、意見が分かれた。
過去2世紀の間に、米国の国民はさらに多様化しているが、国家の本質的な結束は強化されている。19世紀を通じて、また20世紀に入ってからも、絶え間なく流入する移民が、その技能と文化的伝統を、この成長する国家にもたらした。開拓者たちは、米国東部のアパラチア山脈を越え、アメリカ大陸中央部のミシシッピ川流域や大草原地帯に入植し、さらにロッキー山脈を越えて、最初の入植地の大西洋岸から西に4500キロメートルも離れた太平洋岸に到達した。こうした国家の拡大とともに、この国が天然資源の宝庫であることが、誰の目にも明らかになった。それは、広大な処女林の群生、石炭・銅・鉄・石油の巨大な鉱床、豊富な水力、そして豊かな土壌などである。
この新国家の富は、独自の多様性を生み出した。地域や産業別の利害集団がいくつも発生した。東海岸の船舶所有者は、自由貿易を支持した。中西部の製造業者は、成長する米国市場での地位を守るために、輸入関税の導入を主張した。農民は、低い輸送料金と高い商品価格を求めた。製粉業者やパン職人は、低い穀物価格を、また鉄道会社は、できる限り高い輸送料金を望んだ。ニューヨークの銀行家、南部の綿生産農家、テキサスの牧場経営者、そしてオレゴンの製材業者は、それぞれ、経済や、経済を規制する政府の役割について、異なる意見を持っていた。
こうした多様な利害集団を結束させ、共通の土壌を作ると同時に、すべての国民の基本的な権利を守ることが、合衆国憲法と、それによって作られた政府の、継続的な仕事となった。
今日の政府の複雑さに比べれば、現在よりはるかに未開発の経済状況を背景に400万人の国民を統治することは、小さな問題であるように思えるかもしれない。しかし、憲法の起草者たちは、現在と同時に将来のためにも基盤を築いていたのである。彼らは、自分たちの世代だけでなく、その後何世代にもわたって機能できるような政府の構造が必要であることをはっきりと認識していた。そこで彼らは、社会的、経済的、または政治的状況によって必要となった場合に憲法を修正するための規定を、憲法に盛り込んだ。憲法の採択以来、27の修正条項が可決されてきた。そしてこうした柔軟性が、この憲法の最大の強みのひとつであることが実証されている。このような柔軟性がなければ、200年以上も前に起草された文書が、今日、2� ��6000万人の国民と、あらゆるレベルの何千もの政府単位の要求に効果的に応えられるとは考えられない。また、小さな町の問題にも、大都市の問題にも、同等の力と精度をもって適用できたとも考えられない。
どのように多くの5つ星の将軍であった
憲法と連邦政府は、地方自治体や州の管轄権を含む政府組織のピラミッドの頂点に立っている。米国の制度では、政府の各レベルが、大幅な独立性を持ち、独自に割り当てられた権限を持っている。異なる管轄権の間の紛争は、裁判で解決される。しかし、政府の各レベルが同時に協力する必要のある、国益に関する問題も存在する。憲法は、これについても規定している。例えば、米国の公立学校は、おおむね地方自治体が、全州的な基準に基づいて管理している。だが、連邦政府も学校に援助を提供し、さらに教育の機会均等を促進するための統一基準を執行している。これは、識字能力と学力の向上が、国益に関わる重要な問題だからである。また、住宅、医療、福祉など、その他の分野においても、政府の各レベルとの間に、 同様の協力関係が見られる。
人間社会の産物に完璧なものはない。合衆国憲法にもまた、修正条項が追加されたにもかかわらず、今後何らかの問題が起きたときに明らかになりそうな欠陥が残っているものと思われる。しかし、2世紀間におよぶ発展と、他に比類のない繁栄は、米国政府の基礎を築くために1787年の夏を通じて尽力した55人の人たちが先見の明を備えていたことを実証している。アーチボルド・コックス元法務次官は、次のように述べている。「最初の合衆国憲法が、米国民の生活があらゆる面で著しく変化したにもかかわらず、今も良好に機能しているのは、起草者たちが、必要かつ十分なことを口にし、余計なことを言わないという才能を持っていたからである・・・。憲法制定会議で概説された計画が成功し、米国が物質的にも、また理想の 実現においても発展・繁栄するに伴い、合衆国憲法は、いかなる個人または集団をも凌ぐ威厳と権威を持つようになった」
憲法の起草
1781年の連合規約採択から、1787年の合衆国憲法起草までの期間は、国力の衰退と紛争と混乱の時期だった。連合規約には、行政府による法の執行や、国家の裁判制度による法の解釈に関する規定がなかった。立法議会が、国家政府の唯一の機関だったが、議会には、各州の意に反した行動を強制する権限はなかった。議会は、建て前では、戦争を宣言し、軍隊を召集することができたが、各州に対して割り当てられた人数の兵士の動員や、そのための兵器・設備の提供を強制することはできなかった。議会は、活動のための資金拠出を各州に頼っていたが、連邦予算の分担に応じない州を罰することはできなかった。課税や関税の管理は各州に任されており、各州が独自の通貨を発行することができた。州間の紛争が発生した場合、当� ��、州境を巡って未解決の紛争が多数あった議会は、調停役および裁判官の役割を果たしたが、州に議会の決定を受け入れるよう義務付けることはできなかった。
これは、事実上の混乱状態をもたらした。徴税の権限を持たない連邦政府は、赤字に陥った。13州中7州は、独立戦争退役軍人や各種の債権者への支払いのため、また中小農家と大農園主の間の債務を清算するために、大量の紙幣を印刷した。だが、これらの紙幣は額面こそ大きいが、実質購買力は低かった。
これとは対照的に、マサチューセッツ州では、州議会が通貨を厳しく制限し、高い税金を課したため、独立戦争の革命軍大尉だったダニエル・シェイズが農民を組織して反乱を起こした。シェイズの反乱軍は、マサチューセッツ州議会議事堂を占領しようとし、抵当流れや不公正な抵当権の取り消しを要求した。軍隊が出動して反乱を鎮圧したが、この事件で連邦政府は教訓を得た。
また、安定した統一通貨の欠如は、州間の通商と対外貿易にも混乱をもたらした。州によって紙幣の価値が異なっていただけでなく、例えばニューヨークやバージニアなど一部の州は、他州から州内の港に入ってくる製品に関税をかけたため、報復措置を招いた。連邦政府の財務監督官は、「連邦に対する国民の信頼が失われた」と述べたが、これは各州にも当てはまる言葉だった。こうした問題をさらに複雑にしたのは、新たに独立したこれらの各州が、英国から力ずくで分離したため、英国の港湾で優遇措置を受けられなくなったことである。1785年に、米国のジョン・アダムズ駐英大使が通商条約の交渉を行おうとしたが、英国は、この条約が個々の州に対する拘束力を持たないという理由で、これを拒否した。
政策を軍事力で支える権限を持たない弱い中央政府は、必然的に外交においても劣勢に立つことになる。英国は、独立戦争の終結を意味した1783年の平和条約で、新国家の北西準州にある砦や交易所から英軍を撤退させることに同意したにもかかわらず、その実行を拒否した。さらに悪いことに、北の国境地帯では英国将校たちが、また南の国境地帯ではスペイン将校たちが、インディアンの各部族に兵器を供給し、米国の入植者を攻撃することを奨励した。また、フロリダとルイジアナ両州や、ミシシッピ川以西の領域をすべて支配していたスペイン人は、西部の農民が、農産物を出荷するためにニューオーリンズの港を使うことを許可しなかった。
新生国家の一部の地域では、繁栄の回復の兆しが見えたものの、国内外の問題は引き続き拡大した。この連合の中央政府には、健全な財政制度を確立し、通商を規制し、条約を施行し、必要であれば外敵に対して軍事力を行使するだけの力がないことが、ますます明らかになってきた。国内では、農民と商人の対立、債務者と債権者の間の対立、そして各州間の対立が悪化した。1786年に、農民を組織したシェイズの反乱がまだ記憶に新しい中で、ジョージ・ワシントンは、「どの州も火種を抱えており、一触即発の状態にある」と警告した。
1787年5月25日に審議を始めた憲法制定会議では、誰もがこうした最悪の事態に対する不安と、抜本的な変革の必要性とを感じていた。連合規約で設置された無能な議会に代わって、行使可能な幅広い権限を持つ効果的な中央政府を設立しなければならないことを、参加者全員が確信していた。会議の早い段階で、代議員たちは、この新しい政府は、立法、司法、行政の3部門から成り、それぞれが他の2部門の権限と均衡する独自の権限を持つ、ということで合意した。また、立法府は、英国議会のように2つの議院で構成されることでも同意を得た。
しかし、それ以外の点については意見が大きく分かれ、時には会議の継続が危ぶまれて、憲法が起草される前に議事が打ち切られかねない状況となることもあった。人口の多い州は、各州が人口に応じて議決権を持つ比例代表制を支持した。人口の少ない州は、大きい州による支配を恐れ、各州が同等の議決権を持つ制度を主張した。その解決策として採用されたのが、議会の2議院のうちひとつでは各州に同等の議決権を与え、もう一方の議院は比例代表制とする、いわゆる「偉大なる妥協」だった。上院では、各州が2議席を持つことになり、下院では、各州の人口に基づいて議席数を決めることにした。下院の方が多数派の意見をよりよく反映すると見なされたため、連邦政府の予算や歳入に関連する法案を提出する権限は下院 に与えられた。
「偉大なる妥協」によって、人口の多い州と少ない州の対立には終止符を打たれたが、この長い夏を通じて、憲法制定会議の代議員は、このほかにもさまざまな妥協案を生み出していた。一部の代議員は、国民に過度の権限を与えることを恐れ、連邦政府職員はすべて間接選挙で選出することを主張した。一方、可能な限り幅広い選挙人基盤を求める代議員もいた。西部の準州をいずれ合衆国の州とすることに反対する意見もあれば、アパラチア山脈以西の未開拓地に、国家の強力な未来を見出す意見もあった。さまざまな利害関係のバランスをとらなければならず、大統領の任期、権限、および選出方法や、連邦裁判官の役割についても、異なる意見に折り合いをつけなければならなかった。
憲法制定会議に出席した代議員に優秀な人々がそろっていたことが、妥協への道を容易にした。独立戦争の偉大な指導者のうち、会議に出席しなかったのはごく一部にすぎなかった。いずれも後に米国大統領となるトーマス・ジェファーソンとジョン・アダムズは、フランスと英国でそれぞれ大使を務めていたため、欠席した。ジョン・ジェイは、連合の外務長官として多忙だった。また、少数ではあるが、サミュエル・アダムズやパトリック・ヘンリーのように、既存の政府の構造は健全であるという信念から出席を辞退した人々もいた。最も知名度の高い出席者は、独立戦争の米軍司令官を務めた英雄ジョージ・ワシントンで、彼が会議の議長となった。老練で賢明な科学者、学者、外交官であったベンジャミン・フランクリンも 出席していた。このほかにも、バージニア州のジェームズ・マディソン、ペンシルベニア州のグーバヌア・モリス、そしてニューヨーク州出身の優秀な若手弁護士アレクサンダー・ハミルトンといった卓越した人々がそろっていた。
まだ20代、30代の若い代議員たちでさえも、すでに政治的、知的な才能を発揮していた。トーマス・ジェファーソンがパリから、ロンドンにいるジョン・アダムズに宛てた書簡で述べたように、「まさに神格化された英雄たち」だった。
合衆国憲法で成典化されている理念の一部は新しいものだったが、多くは、英国政府の伝統と、13州の自治の実際的な体験に基づくものだった。独立宣言が重要な指針となり、憲法制定会議の代議員たちの心を、自治と基本的人権の保護という理念に集中させた。モンテスキューやジョン・ロックなど、ヨーロッパの政治哲学者の著書も大きな影響を与えた。
上院を満たしていなかった
7月末に、憲法制定会議は、それまでに達成された合意に基づいて憲法を起草するための、委員会を指名した。さらに1カ月間の討議と微調整が行われた後、グーバヌア・モリスの率いる別の委員会が最終草稿を完成し、9月17日に署名のために提出した。代議員全員がこの草稿に満足したわけではなかった。調印式を待たずに去った代議員もいた。残った代議員のうち、バージニア州のエドムンド・ランドルフ、ジョージ・メーソン、マサチューセッツ州のエルブリッジ・ゲリーの3人は、署名を拒否した。39人が署名をしたが、完全に満足していた者はおそらくひとりもいなかった。彼らの意見は、ベンジャミン・フランクリンの次の言葉に代弁されていた。彼は「この憲法には、私が現在賛成できない部分がいくつかあるが、今� �も絶対に賛成できないかどうかは確信できない」と述べた上で、「これより良いものは期待できず、またこれが最良ではないとも確信できない」ため、この憲法を承認する、と言明したのである。
憲法採択―新たな出発点
次の難関は、憲法の採択における困難さだった。少なくとも9州が憲法を採択しなければならなかった。まずデラウェア州が採択し、すぐにニュージャージー州とジョージア州が続いた。ペンシルベニア州とコネティカット州では、かなりの差をつけてと多数で採択されたが、マサチューセッツ州では激しい論争が起きた。最終的にマサチューセッツ州は、特定の基本的権利を保障する10項目の修正条項を追加する、という条件付きで憲法を採択した。ここには、宗教・言論・報道・集会の自由、陪審による審理を受ける権利、不当な捜索や逮捕の禁止、などの権利が含まれる。他にも多くの州が同様の条件を追加した。そしてこの10項目の修正条項は1791年に憲法に追加されて、現在では「権利の章典」と呼ばれている。
1788年6月末までに、メリーランド、サ択の条件が満たされた。こうして、法的には憲法が発効したが、ニューヨークとバージニアという2つの強力かつ中核的な州と、ノースカロライナとロードアイランドという2つの小州がまだ決断を下していなかった。ニューヨークとバージニア両州の同意がなければ、この憲法の足場が不安定になることは明らかだった。
バージニア州では意見が激しく対立したウスカロライナ、ニューハンプシャーの各州も憲法を承認し、これによって9州の承認を得るという採が、採択を支持するジョージ・ワシントンの影響力により、1788年6月26日、州議会は小差で可決し採択した。ニューヨーク州では、アレクサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイが協力し、憲法を支持する一連の優れた論文集『フェデラリスト・ペーパーズ』(通称『ザ・フェデラリスト』)を発表し、7月26日に、憲法は小差で可決・採択された。さらに11月には、ノースカロライナ州が憲法を採択した。ロードアイランド州は最後まで抵抗したが、大きく強力な共和国に取り囲まれた小さな弱い州としての立場を守れなくなり、1790年、ついに憲法を採択した。
バージニアとニューヨークの両州が憲法を採択して間もなく、政府を組織する作業が始まった。1788年9月13日、議会は、ニューヨーク市を新政府の所在地に指定した。(首都は、1790年にフィラデルフィア市へ、さらに1800年にはワシントンDCへ移された)また、1789年1月の第1水曜日を、大統領選の選挙人を選出する日とし、2月の第1水曜日を、選挙人が集まって大統領を選出する日、そして3月の第1水曜日を、新しい議会の開会日とした。
憲法の下で、各州の議会には、大統領選挙人および上院・下院議員の選出方法を決定する権限が与えられた。住民による直接選挙を採用した州、州議会による選挙を採用した州、そして少数ではあるがその両方を併せた制度を採用した州もあった。州間のライバル意識は激しく、従って新憲法の下での第1回選挙の実施が遅れることは必至であった。例えば、ニュージャージー州は直接選挙を採用したが、投票終了の時間を決めなかったため、3週間にわたって投票が行われた。
憲法の完全発効は1789年3月4日に予定されていたが、当日、ニューヨーク市に到着していたのは、代議員59人のうちわずか13人、そして上院議員22人のうちわずか8人であった。(ノースカロライナ州とロードアイランド州の議席は、この両州が憲法を採択するまで、空席となっていた)4月1日に、ようやく下院が定数に達し、上院も4月6日に定数に達した。両院は合同会議を開き、選挙人投票の開票を行った。
誰もが予想した通り、ジョージ・ワシントンが満場一致で初代大統領に選出された。副大統領には、マサチューセッツ州のジョン・アダムズが選ばれた。アダムズは4月21日に、またワシントンは4月23日にニューヨーク市に到着した。2人は、1789年4月30日に宣誓就任した。こうして新政府の樹立作業は完了したが、世界初の共和国を維持する仕事は始まったばかりだった。
最高法としての憲法
合衆国憲法は、自らを「国の最高法」と呼んでいる。裁判所の解釈によれば、この条項は、州憲法や州議会が可決した法律、または連邦議会が可決した法律が、合衆国憲法と矛盾する場合には、これらの法律は効力を持たないことを意味する。過去2世紀の間に連邦最高裁判所が下してきた判決は、こうした憲法の優位性の原則を確認し、強化してきた。
最終的な権限は米国民に属する。国民が望めば、憲法を修正することによって、また少なくとも理論上は、新憲法を起草することによって、基本法を変えることができる。しかしながら、国民がその権限を直接行使するわけではない。国民は、公選あるいは任命された公務員に、政府の日常業務を託す。
公務員の権限は、憲法により制限されている。彼らの公の行為は、憲法および憲法に基づいて作られた法律に従うものでなければならない。公選の公務員は、定期的に再選されなければならず、その際には、国民によって実績を厳しく評価される。任命される公務員は、任命者の意志に従って職務を務め、いつでも解雇される可能性がある。例外は、連邦最高裁判所およびその他の連邦裁判所の判事たちで、その任期は無期限である。それは、判事が政治的な拘束や影響を受けないようにするためである。
通常、米国民はその意志を、投票によって表明する。ただし、公務員が著しい不正行為あるいは違法行為を犯した場合には、弾劾によって公務員を解任できることが、憲法に定められている。憲法第2条第4節には、「大統領、副大統領および合衆国のすべての文官は、反逆罪、贈収賄罪またはその他の重罪および軽罪につき弾劾され、かつ有罪の判決を受けた場合は、その職を免ぜられる」と述べられている。
弾劾とは、立法機関が、公務員を不正行為で告発することである。一般的には、そうした罪で有罪の判決を下すことだと考えられているが、そうではない。憲法に述べられているように、下院が不正行為の告発を行うためには、弾劾法案を可決しなければならない。告発された者は、上院で弾劾裁判を受け、その裁判長は連邦最高裁判所長官が務める。
弾劾は、極端な措置と見なされており、米国ではまれにしか行われていない。1797年以来、下院は、16人の連邦政府職員に対して弾劾を可決している。その内訳は、大統領2人、閣僚1人、上院議員1人、連邦最高裁判所判事1人、および連邦裁判所判事11人である。そのうち上院が有罪判決を下したのは7人で、いずれも判事である。
1868年に、アンドリュー・ジョンソン大統領が、南北戦争で敗北した南部連合諸州への戦後の適切な処理を巡って弾劾された。しかし上院は、有罪判決に必要な3分の2の多数に1票差で達することができず、ジョンソン大統領は弾劾を免れ任期を全うした。1974年には、ウォーターゲート事件の結果、下院司法委員会がリチャード・ニクソン大統領の弾劾を可決したが、下院本会議で弾劾法案の票決が行われる前に、ニクソン大統領は辞任した。
つい最近の1998年には、ビル・クリントン大統領に対し、偽証と司法妨害の疑いで弾劾の手続きがとられた。上院による弾劾裁判では、偽証については55対45で無罪、司法妨害については50対50の同数となり、クリントン大統領に対する判決は無罪となった。大統領を罷免するには、いずれの告発についても、(3分の2の)67票で有罪となることが必要だった。
政府の諸原則
合衆国憲法は、最初に採択されて以来、さまざまな修正を施されているが、以下のような基本的原則は、1789年当時と変わらない。
— 政府の主な3部門である行政府、立法府、司法府は、それぞれに分離し、独立している。ひとつの部門に与えられる権限は、他の2部門の権限と、微妙な均衡を保っている。各部門が、他の部門による行き過ぎの可能性を抑制している。
— 憲法は、その規定に基づいて可決された法律、および大統領が締結し上院が承認した条約ともに、それ以外の法律、行政法、および規則に優先する。
— 人はだれも法の前には平等であり、法の保護を受ける平等の権利を持つ。どの州も平等であり、連邦政府から特別な扱いを受ける州があってはならない。憲法の枠内で、各州は、他の州の法律を認め、尊重しなければならない。州政府は、連邦政府と同様、民主的な形態でなければならず、最終的な権限はその州民にある。
— 国民は、憲法によって規定される法的手段によって中央政府の形態を変える権利を持つ。
憲法修正の規定
どのような政党は1993年であった
合衆国憲法の起草者たちは、この憲法が持続し、国家の成長と歩調を合わせていくためには、時に応じて変化が必要となることを鋭敏に認識していた。また、修正が、誤った発想で拙速のうちに可決されることを防ぐために、改正の過程が容易であってはならないことも認識していた。同様に、彼らは、国民の大多数が望む行為を、少数派が妨害できないようにすることも望んだ。その結果、憲法改正には二重の手順を踏まなければならないような工夫がこらされた。
連邦議会は、各議院の3分の2の票により、修正を提案することができる。あるいは、3分の2の州の州議会が、修正を検討し起草するための全国会議を招集するよう、連邦議会に要請することができる。いずれの場合も、修正条項が効力を持つためには、4分の3の州による承認が必要である。
憲法修正という直接的な手続きのほかにも、憲法の規定の効果を、司法解釈によって変えることが可能である。共和国としての歴史の初期に、1803年の「マーベリー対マディソン事件」の判決で、最高裁は、違憲立法審査権の原則を確立した。これは裁判所が、議会制定の法律を解釈し、その合憲性を判断する権限である。また、この原則には、法的、政治的、経済的、社会的状況の変化に応じて、裁判所が憲法の各節の意味を解釈する権限が盛り込まれている。ラジオやテレビに対する政府の規制から、刑事事件の容疑者の人権に至るまでの、さまざまな問題に関する一連の裁判所の判決によって、長年にわたり憲法自体を大きく変えることなく、その趣旨を時代に合わせたものにすることが可能となったのである。
基本法の規定を実施したり、状況の変化に基本法を合わせたりするために可決される連邦議会の法律もまた、憲法の意味を拡大し、巧妙に変化させる。連邦政府機関の規則や規定も、ある程度、同様の効果を持つ。いずれにしても、そうした法律や規則が憲法の意図に従っているかどうかを判断するのは、裁判所である。
権利の章典
合衆国憲法は、1789年以来、27回にわたって修正されており、今後もさらに修正される可能性が高い。最も抜本的な修正が行われたのは、憲法採択から2年の間だった。その2年間に、最初の10項目の修正条項が追加された。これらは、「権利の章典」と呼ばれている。連邦議会が1789年9月にこれらの修正を一括して承認し、 1791年末までに、11州が採択した。
当初、憲法に対する抵抗の多くは、国家の連合の強化に反対する人々からではなく、個人の権利を具体的に記述するべきだと考える政治家からのものだった。その1人であるジョージ・メーソンは、権利の章典の前身となったバージニア権利宣言を起草した。憲法制定会議の代議員として、メーソンは、起草された憲法が個人の権利を十分に保護していないという理由で、署名を拒否した。メーソンの反対によって、バージニア州による採択が阻止されかけたほどである。マサチューセッツ州でも同様の反対意見が強く、同州の採択には、具体的な個人の権利の保証を追加するという条件が付けられた。第1回連邦議会が招集される頃には、そのような修正条項の採用が、ほぼ満場一致で支持され、議会は直ちに修正条項を起草した。
これらの修正条項は、2世紀後の今日も、当時起草されたままの形で残っている。修正第1条は、信教、言論、および出版の自由、平穏に集会する権利、そして苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を保障している。修正第2条は、人民が武器を保有し、携帯する権利を保障している。修正第3条では、所有者の承諾なしには、何人の住居にも兵士を宿営させてはならない、と規定されている。修正第4条は、不当な捜索、逮捕、および所有物の押収からの保護を規定している。
その次の4つの修正条項は、司法制度に関するものである。修正第5条は、大陪審の告発または起訴による場合以外は、重大犯罪の審理を禁止している。また、同一の犯罪について審理を繰り返すこと、正当な法の手続きによらずに懲罰を科すこと、そして被疑者に自己に不利な供述を強制することを禁止している。修正第6条は、刑事犯罪について、迅速な公開裁判を保障している。また、公平な陪審による審理を義務付け、被疑者が弁護人の援助を受ける権利を保障し、証人は出廷して被疑者の前で証言することを強制されることを規定している。修正第7条は、民事訴訟において係争の価額が二十ドルを超える場合は、陪審による審理を行うことを保障している。修正第8条は、過大な額の保釈金または罰金、そして残酷で異常 な刑罰を、禁止している。
権利の章典の10項目の修正条項のうち最後の2つは、憲法の権威に関する非常に広範にわたる内容を持つ。修正第9条は、憲法中に個人の権利が列挙されているからといって、それがすべてではないこと、すなわち国民は、この憲法に具体的に述べられていない他の権利も持っていることも明言している。修正第10条は、この憲法によって連邦政府に委任されておらず、また州に対して禁止されてもいない権限は、それぞれの州または国民に留保されていることが規定されている。
個人の自由保護に主眼
連邦政府を組織した合衆国憲法の真髄は、その後2世紀にわたって、米国に多大な安定性をもたらした。そして、権利の章典およびその後の各修正条項は、基本的人権を米国の司法制度の中心に据えてきた。
国家が危機的な状況にあるときには、どこの政府でも、国家安全保障の確保のために、そうした基本的人権を一時停止しようという誘惑に駆られるものだが、米国では、そうした措置は常にやむを得ず取られるものであり、また極めて周到な防護対策の下で取られてきた。例えば、戦時には、軍当局が米国と外国との間の郵便、特に戦線から米国の家族に出された郵便を検閲した。しかし、戦時中でさえも、憲法で保障されている公正な裁判を受ける権利が廃止されることはなかった。スパイ活動、妨害工作やその他の危険行為を行った敵国人を含め、犯罪の被疑者には、自らを弁護する権利が与えられ、米国の制度の下で、有罪が証明されるまでは無実と見なされる。
権利の章典 に続く各修正条項の内容はさまざまである。その中で最も広い影響力を持つ条項のひとつは、1868年に採択された修正第14条である。この修正条項は、市民権について明快かつ簡潔な定義を確立し、法の下での公平な扱いを保障している。修正第14条は、実質的に各州が権利の章典による保護を順守することを義務付けるものである。その他の修正条項には、連邦政府の司法権限を制限するもの、大統領選出の方法を変えるもの、奴隷制を禁止するもの、人種、肌の色、性別、または過去における労役の状態を理由として投票権を拒否することを禁止するもの、個人所得に対する連邦議会の課税権を拡大するもの、そして一般投票による上院議員の選出を規定したもの、などがある。
最も新しい修正条項には、大統領の在職を2期までとする修正第22条、コロンビア特別区の住民に投票権を与えることを規定した第23条、人頭税を支払わない市民にも投票権を与えることを規定した第24条、副大統領職が任期途中で欠員となった場合の補充を規定した第25条、投票年齢を18歳に引き下げた第26条、そして、連邦上下両院議員の報酬に関する第27条がある。
27の修正条項の大半は、市民的ないしは政治的な個人の自由を拡大するための継続的な努力の成果であり、その一方で1787年にフィラデルフィアで起草された基本的な政府の構造の拡大に関する条項が少ないことは、特筆に値する。
連邦制度
合衆国憲法の起草者の念頭には、いくつかの明確な目標があった。彼らはそれを、6つの要点を記した、52語から成る憲法前文に、驚くほど明確に盛り込んでいる。
「より完全な連邦」を築くことが、1787年にこの13州が直面していた明確な課題であった。連合規約の下で当時存在していた連邦に比べれば、ほぼどのような連邦でも、より完全に近いことは、実に明確だった。しかし、既存の連邦に代わる新たな機構を考案するためには、重要な選択をしなければならなかった。
「より完全な連邦を形成し・・・」
どの州も、11年前に英国から分離して以来行使してきた主権を維持することを望んだ。各州の権利と中央政府が必要とすることとの間で均衡を保つことは容易なことではなかった。憲法の起草者たちは、州民の日常生活を規制するために必要なすべての権限を各州に維持させることによって、それを達成した。ただし、こうした権限が国家全体の必要や福利と対立しないことが前提だった。このような権限の分離は「連邦主義」と呼ばれ、今日に至るまで本質的には変わっていない。教育、公衆衛生、事業組織、労働条件、結婚と離婚、地方税、通常の警察権など、地域的な業務における各州の権限は、極めて広く、十分に認識され、受け入れられている。このため隣接する2州の間で、同じ問題に関する法律が大きく異なることも珍� ��くない。
こうした憲法の取り決めは創意に富んだものであったが、その後も州の権利を巡る論争は高まり、ついには4分の3世紀後の1861年に、北部諸州と南部諸州の間で4年間にわたる戦争が勃発した。この南北戦争は、「内戦(Civil War)」あるいは「州間の戦争(War Between the States)」と呼ばれ、その根本的な原因は、新たに連邦に加わった各州で、連邦政府が奴隷制を規制する権利を持つかどうかを巡る論争だった。北部諸州は、連邦政府にはそうした権利があると主張した。これに対して南部諸州は、奴隷制の問題は各州が独自に決定すべきことだと主張した。南部諸州の一部が連邦脱退を試みたのを契機に戦争が起きた。そして共和国の維持という理念のために戦いが行われた。南部諸州が敗北して再び連邦に統合され、連邦政府の優位が再確認されるとともに、奴隷制が廃止された。
「・・・正義を樹立し」
米国の民主主義の本質は、独立宣言の「すべての人は生まれながらにして平等であり」という有名な一節と、それに続く「すべての人は侵されざるべき権利を創造主から与えられている。その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている」という記述の中に含まれている。
合衆国憲法は、人を富や地位で区別しない。すべての人は法の前に平等であり、法に違反した場合は、誰もが平等に裁きと懲罰を受ける。財産、法的な契約、および商業上の取り決めを巡る民事紛争に関しても同様である。法廷が万人に開放されていることは、権利の章典に盛り込まれた極めて重要な保障のひとつである。
「・・・国内の平穏を保障し」
米国が激動の状況の中で誕生したこと、そして米国の西部辺境が未開拓の状態だったことは、米国民に、この新国家が発展し繁栄するためには国内の安定が必要であることを確信させた。合衆国憲法によって作られた連邦政府には、各州を外敵の侵入および国内の争乱や暴力から守るだけの力がなければならなかった。1815年以降、米国本土で外国による侵略を受けたところは、どこにもない。各州政府は、概して州内の秩序を維持するに足る力を備えてきた。しかし、その背後には、平和を維持するために必要な措置を取る権限を憲法によって与えられた、連邦政府の強大な力が存在している。
「・・・共同の防衛に備え」
独立を確保した後も、この新国家は18世紀末に、さまざまな方面からの極めて具体的な危険に直面しなければならなかった。西部の辺境では移住者たちが、敵対的なインディアン部族の脅威に、常に直面していた。北方のカナダは引き続き英国領であり、カナダの東部諸州には、独立戦争中も英国王室に忠誠を誓った米国のトーリー党員が大勢おり、復讐心を燃やしていた。大陸中西部では、フランスが広大なルイジアナ準州を領土としていた。南部では、スペインがフロリダ、テキサス、メキシコを所有していた。カリブ海には、このヨーロッパ3大国が米国沿岸を攻撃できる距離に、それぞれ植民地を持っていた。さらに、ヨーロッパ各国は一連の戦争に巻き込まれ、それが新世界にも波及してきていた。
当初、「共同の防衛」を提供するという憲法の目的は、主として、アパラチア山脈を越えたすぐ先の領土を開拓し、そこに住むアメリカ先住民の各部族との和平を交渉することであった。しかし、ほどなくして起きた1812年の米英戦争、フロリダにおけるスペインとの衝突、そして1846年の米墨戦争によって、軍事力の重要性が浮き彫りにされた。
米国の経済的、政治的な力が増すとともに、その防衛力も強大になった。憲法は、防衛の責任を、立法府と行政府に分担させている。すなわち、連邦議会だけが、宣戦を布告し、防衛のための資金を充当する権限を持つ一方、大統領が軍隊の最高司令官であり、国家防衛の主な責任を負担する。
「・・・一般の福祉を増進し」
独立戦争が終わった当時、米国は経済的に困難な状況にあった。国家の資金は枯渇し、信用は不安定で、紙幣は事実上無価値となっていた。商工業はほぼ停止状態となり、各州および連合政府は多額の負債を抱えていた。国民が直ちに飢餓状態に陥る危険はなかったが、経済発展の見通しは極めて暗かった。
新たな連邦政府がまず直面した責務のひとつが、堅実な基盤の上に経済を建て直すことだった。憲法第1条は、「連邦議会は次の権限を有する。・・・国債を支払い、・・・一般の福祉に備えるために、租税…を賦課徴収すること」と規定している。
この徴税権によって、政府は戦債を支払い、通貨を安定させることができた。国家の財政を管理する財務長官と外国との関係を担当する国務長官が任命された。また、国家の軍事安全保障を担当する陸軍省長官と、連邦政府の最高司法官である司法長官も任命された。後に、米国の領土が拡張し、その経済が複雑化するに伴い、国民の福祉を維持するために必要な行政機関がさらに追加された。
「・・・われわれとわれわれの子孫に自由の恩恵を確実にもたらす」
個人の自由の重視が、この新しい共和国の顕著な特色のひとつであった。米国民は、多くが政治的あるいは宗教的抑圧を逃れてきた人々であったため、新世界で自由を保持することに対する固い決意を持っていた。合衆国憲法の起草者たちは、連邦政府に権限を与えるに当たり、国家および州の政府の権限を制限することによって、すべての人民の権利を守ることに注意を払った。その結果、米国民には、各地を移動する自由、職業・宗教・政治的信条について独自の決断を下す自由、そして、そうした権利が侵害されたと考えたときには裁判所に正義と保護を求める自由が付与されている。
ジョージ・ワシントンと憲法制定会議
憲法制定会議の定足数を満たす代議員がフィラデルフィアに集まったところで、ジョージ・ワシントンが満場一致で議長に選出された。ワシントンは、自分にはそんな資格はありませんと言いつつ、ためらいながらも議長を引き受けた。彼は、開会の挨拶で、代議員の誇りと理想主義に訴え、「賢明で正直な者が結集できる旗(憲法)を掲げようではないか」と呼びかけた。
議長としてのワシントンは、確固たる信念を持ち、礼儀正しかったが、自分の感情を表さず、会議の最終日まで、議論に参加することはなかった。彼は、肉体的にも精神的にも極めて強い印象を与える存在であり、ある代議員はワシントンについて、「いっしょにいると畏怖を感じさせる唯一の人物だった」と述べた。
ワシントンが強力な連邦を支持した理由は、アメリカ独立戦争で大陸軍の総司令官を務めた経験に基づくものだった。彼は、ニュージャージー軍の兵士たちに、米国への忠誠を誓わせようとしたときのことを回想していた。兵士たちは、「ニュージャージーがわれわれの国である」と主張して、米国に忠誠を誓うことを拒否した。憲法制定会議の休会中に、ワシントンは、近くにある独立戦争当時の戦場だったペンシルベニア州バレーフォージを訪れた。そこは各州が全体の大義のために貢献することを躊躇したために、彼とその軍隊が野営し、厳しい冬を越さなければならなかった場所だった。
憲法制定会議が終了し、採択の過程が始まると、ワシントンは沈黙を破って精力的に憲法を支持し、自分の出身州であるバージニア州で、多くの憲法反対派に、意見を変えるよう働きかけた。彼は、権利の章典(後に最初の10項目の修正条項となる)を有権者の眼前に提示した批判派の手段の効果を認めざるを得なかった。同時に、彼は、『フェデラリスト・ペーパーズ』で憲法を支持したジェームズ・マディソンとアレクサンダー・ハミルトンに敬意を表わし、2人は「政治学に新たな光を投げかけた。2人は人権について十分かつ公正な議論を行い、後々まで残る強い印象を与えずにはおかないような、極めて明確かつ効果的な方法で、人権の説明をした」と記した。
奴隷制を巡る議論
合衆国憲法には「奴隷制」という言葉は見当たらないが、憲法は間接的に奴隷制を認めていた。憲法制定会議に出席した代議員たちは、各州から連邦議会下院に選出される議員の人数を決める基準として、奴隷人口の5分の3を考慮に入れることを規定した。その上で憲法は、州境を越えて逃亡した奴隷(「服役または労働に従う義務のある者」)を所有者に返すことを義務付けた。そして、1808年以降は、連邦議会は奴隷貿易(「現存の諸州のいずれかが、入国を適当と認める人々の移住および輸入」)を廃止することを禁止されない、と定めた。
憲法制定会議では、こうした各規定が激しい論議の対象となり、それぞれが最終的には妥協の精神の下で承認された。アレクサンダー・ハミルトンをはじめとする北部の反奴隷制派の人々でさえも、奴隷制は各州間の対立を決定的にし、より緊急の目標である強力な連邦政府の達成を危うくするものであるとして、奴隷制の問題を追及することに反対した。また、奴隷制を嫌悪しながらも、連邦が承認されれば奴隷制は消滅すると考えたジョージ・ワシントンやジェームズ・マディソンといった南部の有力者も、妥協を促した。
しかしながら、会議では、奴隷制を巡る道徳的な問題が激しく議論される場面もいくつかあった。ペンシルベニア州のグーバヌア・モリスは、奴隷制は「邪悪な制度である。奴隷州に対して天罰あれ」と非難した。彼は、奴隷制のない地域の繁栄と人間の尊厳に対比させて、奴隷州の「悲惨と貧困」を強調した。
皮肉なことに、憲法制定会議で最も雄弁に奴隷制を攻撃したのは、奴隷州であるバージニア州のジョージ・メーソンであった。ジェファーソンが「この世代で最も賢い人物」と評したメーソンは、奴隷制は「礼節に対して最も悪質な影響を及ぼす。奴隷所有者は皆、生まれながらにして安っぽい暴君である・・・。奴隷制は、芸術や工業の発展を妨げる。貧しい者は、奴隷が労働する姿を見て、労働を忌み嫌うようになる・・・政府が奴隷制の拡大を防止する力を持つことが・・・不可欠であると私は考える」と述べた。
その後、奴隷制廃止論者は同様の主張をし、同様の道徳的な憤りを表明するようになるが、少なくとも当面は、奴隷制の問題は、表現上も、また道徳上の議論としても、回避されたのである。米国が奴隷制を廃止し、完全な人種平等への困難な道を国家として歩み始めるには、悲劇的な南北戦争(1860~65年)の勃発を待たなければならなかった。
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